私が、手足頭が不自由になった時の理想を考えてみた。 今でも十分不自由だけど、介護が必要になった時のことだ。 コンセプトは
「起きて半畳、寝て一畳、天下取っても二合半」」
それ以上の贅沢は無駄だ。 日頃の私の主義主張が泣く。
その時、家族には私の収入(ほぼ年金)に見合った施設を見付けて(自分で前もって探しておく心算だが)、運よく空きがあったら即、入れて欲しい。
私は「赤の他人」に介護してもらいたい。 出来ればロボットに介護して欲しいと思っている。 ささやかながら私にも介護の経験がある。 身内による介護は精神的にも肉体的にも本当に大変だ。
ごく偶にご馳走を食べれば美味しいように、家族には、ごく偶に見舞いに来てくれたらとても嬉しいだろう。 しょっちゅう来る必要は無い。 私に関する限り、家族には「世間の目」を可能な限り無視して欲しい。 世間の言う「義理人情」は見栄に基く物が多いから。
人生は呆れるほど短い。 だから人は可能な限り楽しい時間を過ごすべきだ。
私は年賀はがきを書かない。 書けば山のような書き損じが出る。 その上字が下手だ。 そんな私から御座なりのやっつけ仕事の葉書を受け取ってもだれも嬉しくないだろう。 時間の無駄だ。
年賀葉書をはじめとして、私は基本的に義理は捨てている。 山の中に住んでいるから親類縁者や御近所の「厳しい目」も感じないで済む。 とても自由だ。 私にとっての「豊かさ」とは「自由の量」だ。 家族にも可能な限り自由であって欲しいと思っている。 私の手足が不自由になっても、家族が自由に生き生きと暮らしていると思えば嬉しいだろう。 もし私の介護に明け暮れる日々ならば、「早く死ななきゃ」って焦るだろう。 焦るのは嫌いだ。 申し訳なくて、今を自由に生きられない。
私の夢を実現する為にも、日本経済が破綻しては困る。 規制緩和の促進と社会保障費の削減は焦眉の急なのに、ああ・・・
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